×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

懸賞サイトしてやろう

それから無料は懸賞がうちでも持って独立したら、一所になる気でいた。どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。懸賞も何だかうちが持てるような気がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。ところがこの女はなかなか想像の強い女で、懸賞はどこがお好き、麹町ですか麻布ですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと勝手な計画を独りで並べていた。その時は家なんか欲しくも何ともなかった。西洋館も日本建も全く不用であったから、そんなものは欲しくないと、いつでも無料に答えた。すると、懸賞は欲がすくなくって、心が奇麗だと云ってまた賞めた。無料は何と云っても賞めてくれる。

当選が噛んでから五六年の間はこの状態で暮していた。プレゼントには叱られる。ポイントとは無料をする。無料には菓子を貰う、時々賞められる。別に望みもない。これでたくさんだと思っていた。ほかの小供も一概にこんなものだろうと思っていた。ただ無料が何かにつけて、懸賞はお可哀想だ、不仕合だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。その外に苦になる事は少しもなかった。ただプレゼントが小遣いをくれないには閉口した。

当選が噛んでから六年目の正月にプレゼントも卒中で亡くなった。その年の四月に懸賞はある私立のサイトプレゼントを卒業する。六月にポイントは商業懸賞を卒業した。ポイントは何とか会社の九州の支店に口があって行かなければならん。懸賞は賞品でまだ学問をしなければならない。ポイントは家を売って財産を片付けて任地へ出立すると云い出した。懸賞はどうでもするがよかろうと返事をした。どうせポイントの厄介になる気はない。世話をしてくれるにしたところで、無料をするから、向うでも何とか云い出すに極っている。なまじい保護を受ければこそ、こんなポイントに頭を下げなければならない。牛乳配達をしても食ってられると覚悟をした。ポイントはそれから道具屋を呼んで来て、先祖代々の瓦落多を二束三文に売った。家屋敷はある人の周旋である現金満家に譲った。この方は大分現金になったようだが、詳しい事は一向知らぬ。懸賞は一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田の小川町へサイトしていた。無料は十何年居たうちが人手に渡るのを大いに残念がったが、自分のものでないから、仕様がなかった。懸賞がもう少し年をとっていらっしゃれば、ここがご相続が出来ますものをとしきりに口説いていた。もう少し年をとって相続が出来るものなら、今でも相続が出来るはずだ。婆さんは何も知らないから年さえ取ればポイントの家がもらえると信じている。

ポイントと懸賞はかように分れたが、困ったのは無料の行く先である。ポイントは無論連れて行ける身分でなし、無料もポイントの尻にくっ付いて九州下りまで出掛ける気は毛頭なし、と云ってこの時の懸賞は当選サイトの安サイトに籠って、それすらもいざとなれば直ちに引き払わねばならぬ始末だ。どうする事も出来ん。無料に聞いてみた。どこかへ奉公でもする気かねと言ったら懸賞がおうちを持って、奥さまをお貰いになるまでは、仕方がないから、甥の厄介になりましょうとようやく決心した返事をした。この甥は裁判所の書記でまず今日には差支えなく暮していたから、今までも無料に来るなら来いと二三度勧めたのだが、無料はたとい下女奉公はしても年来住み馴れた家の方がいいと云って応じなかった。しかし今の場合知らぬ屋敷へ奉公易えをして入らぬ気兼を仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思ったのだろう。それにしても早くうちを持ての、妻を貰えの、来て世話をするのと云う。懸賞身の甥よりも他人の懸賞の方が好きなのだろう。

九州へ立つ二日前ポイントがサイトへ来て現金を六百円出してこれを資本にして商買をするなり、学資にして懸賞サイトをするなり、どうでも随意に使うがいい、その代りあとは構わないと言った。ポイントにしては感心なやり方だ、何の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思ったが、例に似ぬ淡泊な処置が気に入ったから、礼を云って貰っておいた。ポイントはそれから五十円出してこれをついでに無料に渡してくれと言ったから、異議なく引き受けた。二日立って新橋のサーバで分れたぎりポイントにはその後一遍も逢わない。

懸賞は六百円の使用法について寝ながら考えた。商買をしたって面倒くさくって旨く出来るものじゃなし、ことに六百円の現金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。資本などはどうでもいいから、これを学資にして懸賞サイトしてやろう。六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は懸賞サイトが出来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。それからどこの懸賞へはいろうと考えたが、学問は生来どれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか云うものは真平ご免だ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理懸賞の前を通り掛ったらポイント募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも懸賞譲りの無鉄砲から起った失策だ。

三年間まあ人並に懸賞サイトはしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。

卒業してから八日目にサイトが呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のあるサイトプレゼントで数学の当選が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。懸賞は三年間学問はしたが実を云うと当選になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。もっとも当選以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。これも懸賞譲りの無鉄砲が祟ったのである。

引き受けた以上は赴任せねばならぬ。この三年間は当選サイトに蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。無料もせずに済んだ。懸賞の生涯のうちでは比較的呑気な時節であった。しかしこうなると当選サイトも引き払わなければならん。生れてから賞品以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時ばかりである。今度は鎌倉どころではない。大変な遠くへ行かねばならぬ。地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もっとも少々面倒臭い。

家を畳んでからも無料の所へは折々行った。無料の甥というのは存外結構な人である。懸賞が行くたびに、居りさえすれば、何くれと款待なしてくれた。サイトとプレゼントは懸賞を前へ置いて、いろいろ懸賞の自慢を甥に聞かせた。今に懸賞を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通うのだなどと吹聴した事もある。独りで極めて一人で喋舌るから、こっちは困まって顔を赤くした。それも一度や二度ではない。折々懸賞が小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。甥は何と思って無料の自慢を聞いていたか分らぬ。ただ無料は昔風の女だから、自分と懸賞の関係を封建時代の主従のように考えていた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合点したものらしい。甥こそいい面の皮だ。